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2007年04月08日

蓮を認めること=神聖さに降伏する

先日、ムラウスから俺に宿題が出された。
(ムラウスとは、ソースセンターへ導いてくれる案内役みたいな存在。ソースセンターとは、『天国の真実』のようなところ。)


過去の神聖なる特質が、蘇ってきています。

蓮の中に、それと共にあなたの中にも、神聖さに降伏する特質、傾向が芽生え始めています。
育ち始めている。
それは、蓮に対してです。

もう一度、過去のアクセスの内容、読み返すといいでしょう。

神聖さから始まる、また神聖さに関する様々なメッセージと合わせて、あえて関連付けて、蓮にフォーカスし、蓮に沿い、蓮をツールとする関連するメッセージを読むといいでしょう。
そして、蓮の発する最近の内容、感じること、併せ持って、見直すといいでしょう。

この三つの事柄には、見出せる一貫性があります。
言わんとすることがあります。

その言わんとする事柄に対し、特にあなたにとって、降伏しにくい部分でもあります。

今という時から、過去に戻れば戻るほど、あなたが抵抗していたのかがわかると思います。
その抵抗が、和らぎ始めている。

自分に問うといいでしょう、それはなぜか。




もっとメッセージは長いのだが、宿題の内容をポイントとなる点はここ。


横浜のカレッジから帰ってきてからのある日の夜、蓮と俺は打ち合わせしたのでもなく、表現こそ違えど、全く同じようなコミット、自分の家で別々にしていた夜があった。

次の日の朝に話したのが、

『神聖さに降伏する』というコミットをしたという内容だった。

蓮のコミットの話しは、
「自分が神聖にあるということを認めない限り、本当の意味での奉仕、つまり人に対してのエッセンスに成り得ないということに気付いた。」
というような話しであった。


それに対して俺は、
「蓮を認めるには、霊的な存在としての自分を認めなければならない。」
ということであった。

何故、蓮を認めようとするかと言えば、答えは簡単なのである。

『蓮を認めない限り、高次の存在すら認められない。』

という気づきからだ。


ここに至る経緯には、色々考えることがあった。

その発端は、北海道のイニシエーションの時から始まった。

北海道のイニシエーションでは、珍しくシフが2日間ともプラーナ呼吸のレッスンを行ってくれた。
それを見ていた俺は、シフにそんなことをさせているのがおかしいと感じた。

アクセスだけでも大変なエネルギーを使っているはずなのに、プラーナ呼吸のレッスンをするということは、さらにエネルギーを使わせることになる。
しかもプラーナ呼吸のレッスンであれば、俺はできる。

高次の存在に必要以上のエネルギーを使わせることが神聖さに沿っているのか。
答えはNo、沿っているはずがない。

3月の横浜でも同じようなことが起こった。

カレッジで行うイニシエーションでは、カレッジ生が結界の柱になるレッスンがあるのだが、柱になりきっていない場合がある。

柱になるには、軽い瞑想状態で、柱になっている意識を持ち続ける必要がある。

しかし、レッスンであるが故に、目を開けてイニシエーションの状態を見ていてもいいという許可は出ている。

しかし、見ている人間は柱になっているのではなく、傍観者として存在しているのがありありとわかる状態のときがある。

それが3月のカレッジでもあった。

イニシエーションの後に蓮に話しを聞くと、シフは柱の状態を気にしていたものの、イニシエーションを受けている人に集中しなくてはならなかったために、どうにもできない様子だったと言う。

これはまずい、俺だけでもしっかりとしなければならないと感じ、俺が感じていたことを蓮と話した。

その時に、蓮が言ったのは、

『高次もエネルギーを使ってるけど、私も同じようにエネルギーを使ってる。』


この言葉を聞いて、ハッとした。
高次達と蓮を切り離して考えている俺がいることを。

高次達にする配慮を、何故、蓮にできないのか。
この答えが、

『蓮を認めない限り、高次の存在すら認められない。』

という気づきであった。


蓮を認めるということは、自分を認めることでもあり、高次の存在を認めることでもある。

自分の光の部分も、闇の部分も認める。
すでにアクセスが起こっていることも、傷ついたインナーチャイルドを抱えていることも認める。

ただ間違ってはいけないのが、アクセスとは、蓮のように高次の媒体となり、話すこととは別の問題であるということ。


自分の全てを認めてしまえれば、自ずと蓮の全てを認められるようになる。
しかも、自分の成長に抵抗することすらなくなる。

それは、神聖さに沿うこととなり、霊的に生きるという選択しかなくなる。


そして、俺のやりたいことを考えてみると、

『蓮と共に成長し、根源へ帰還する。』

簡潔だが、これしかないと思った。


自分の霊的な成長こそが神聖さに沿うこととなり、それには、自分の軸を保ち、自分の境界を越えずにいなくてはならない。

つまり、自分を救うのは自分であり、人を救うことはできないという意識を持ち続けなければならない。

1月2日にセイロウからもらったメッセージの中にもこうある。

私たち(高次たち)は、肉体、この3次元レベルの肉体を持たずに接触しています。
そこで(3次元レベル)肉体を持ち、これら真実を見せていけることは、非常に大きな偉大なる愛の具現です。
その存在の先駆者として、すでに蓮が存在していること、歩んでいることは、大いなる神聖な愛の具現の武器でもあるのです。
その存在を活用しない、上手く活用できてない、つまり、私たちが蓮を通し放つ光、火、愛を愛を持って光として掲げること、照らす光として用いることを何より望んでいます。

そうすることで、誰もが愛の希望を持つことができること、そのことをおろそかに扱わないで下さい。
過小評価しすぎている。

そして誰もが、蓮そのものになれることを知らせることを誇りに思って下さい。
私たちが共通していることとして、新たな真の道に歩み直させるには、この非常に恵まれた時期を大いに活用したいものです。

故に、今回ごくありきたりな人の歩みから成熟していく道を見せることが、真の救いになるということです。



特に注目すべき点は、

『今回ごくありきたりな人の歩みから成熟していく道を見せることが、真の救いになるということです。』


それが、

『その存在の先駆者として、すでに蓮が存在していること、歩んでいることは、大いなる神聖な愛の具現の武器でもあるのです。』

とも言っている。


蓮は、そのものがエッセンスであり、真実を見せている存在であり、大いなる神聖な愛の具現であることを認めなければならい。

それを俺も含め、蓮に接している周りの人間が、如何に蓮の真実を見せるかが非常に重要になってくる。
これが社会に対しての奉仕ではないのか。

蓮を認めなければ、蓮を自分のツールとして使うことなどできない、ましてツールとして使わずして蓮を見せることなんてできない。



『蓮の全てを認め続けることは、自分の軸を保ち続けること。』

これに蓮は気付かせてくれた。






posted by dozen/Ryu at 18:31 | 0704 Love Life | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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