それは、みんなに奉仕したいと思っているからだ。
そして、何かをしようとする時に、蓮がよく言うのは、
『みんなも誘おう。』
蓮自身が一番よく知っているのは、蓮が高次の媒体であり、一緒にいれば、蓮が何かしらのエッセンスになるということ。
だから、誘おうとするのだ。
だから突然でもあるのだ。
そしてもうひとつ蓮がよく知っているのは、
『高次たちが蓮をツールとして一番活用している。』
ということ。
それを活用しきれていないのを最近俺は感じている。
ムラウスから宿題をもらって、今年に入ってからの高次のメッセージを読み返している。
そこで気になった言葉が、
『評価』
蓮への評価が甘いのである。
だから活用しきれない。
高次たちが一番ツールとして使っているのに、何故俺が使えないのか、一番そばにいる俺が。
それが俺の蓮に対しての評価ということに繋がった。
蓮が神聖さに沿おうとしているのを間近で見ている、俺の蓮への評価が低いのであれば、俺は蓮をツールとして使うことが甘くなるのも必然。
評価が低いツールを一生懸命使おうとするだろうか。
評価が高いツールだからこそ、一生懸命使おうとするのだ。
評価が甘くなる理由は、
『抵抗、認めたくない』
というインチャのクセ、もしくは霊的なインチャかもしれない。
しかし、蓮に対して抵抗すること、認めないことは、霊的なものに抵抗することでもあるし、認めないことにもなる。
これこそ『神聖さに沿う』ということの正反対のことをしていることになる。
この抵抗している俺にでさえ、高次はメッセージをくれている。
しかも、俺が持っている無意識の抵抗の部分へのメッセージをもくれるのだ。
これは、本当に愛ある行為ではないのか、それの媒体になってくれている蓮も同じ。
高次だから、蓮だからではなく、蓮がいなくては高次はこのようにメッセージを降ろせないのだ。
その行為、意味、そして蓮の存在をしっかりと評価しなければならない。
高次からのメッセージを読み返すことにより、このことに気づかせてくれたのも偶然ではないだろう。
これも蓮が媒体なり、より神聖さに沿うように心掛け、さらなる霊的成長を目指しているからだ。
【0704 Love Lifeの最新記事】